「懐古趣味」
骨董品であったり、歴史であったり、あるいは古典文学であったり、自分が生まれるよりずっと昔の事物が好きでたまらないという人はたくさんいます。そこにはきっと、生で体験することが絶対に叶わない時代への憧れ、一種のロマンチシズムがあるのではないでしょうか。
「懐古趣味」あるいは「レトロ趣味」という表現があります。「懐古」とは文字どおり「古きを懐かしむ」、つまり昔を懐かしむことです。ここでいう「昔」というのは、上記のように生まれる以前の物事を指すこともありますし、自身の人生における「昔」……例えば、子供のころに好きだったテレビ番組やおもちゃ、若いころに熱中した音楽などを懐かしむ場合を指すこともあります。
「懐古趣味」とは、そうした古いものに対する趣味嗜好のことです。「懐古」の念に駆られたとき、往々にして人は思うものです。「ああ、昔は良かったなあ」と。
「懐古厨」とは?
さて、ここからは本題に入って「懐古厨」のお話です。「懐古」の意味はすでにお伝えしました。一方、「厨」というのはネット生まれのスラング(俗語)で、「厨房」の省略形です。「厨房」といってもキッチンのことではなく、中学生坊主の「中坊」を意味します。まるで中学生みたいに世間知らずで、自意識過剰な発言をする人を嘲って呼ぶ言葉が、「中坊」変じて「厨房」というわけです。
つまり、「懐古厨」とは、懐古ばかりしていて現在の物事を否定する人に対する、嘲笑や侮蔑を含んだ呼称なのです。「今」を受けつけないというのは、場合によっては「時代についていけない」ということでもあります。「今」の文化を当たり前に楽しんでいる人たちにとっては、それを否定・批判する人の存在は面白くないでしょう。そこから「懐古厨」という蔑称が生まれました。
通常、「懐古厨」と呼ばれる人たちの多くは、自身が過去に経験したカルチャー(音楽、漫画、アニメ、ゲーム等々)を至上のものとし、それと比較して「今」を批判するケースが多いようです。
「懐古厨」はなぜ生まれる?
「懐古趣味」自体は何も悪いことではありません。が、「昔」だけを褒めそやして「今」に拒絶反応を示すとなると、すこし話は違ってきます。
それにしても、なぜ人は「懐古厨」になるのでしょう? ここからは、先ほど触れたカルチャー(音楽、漫画、アニメ、ゲーム等々)を対象に考えてみましょう。
「今」のほうが劣っている?
世のなかの物事には二つのパターンがあります。ひとつは進化、ひとつは停滞(もしくは退化)です。多くの場合、過去の物事を参考に、あるいは下敷きにして、そこにさまざまな手法やアイディアを加えることで物事は進化していきます。
一方、人間の考えつくことには限りがありますから、のちの時代の作品ほど過去の模倣、二番煎じになりがちです。「いつかどこかで見たもの」では新鮮味もありません。そうすると、昔をよく知る人にとっては「なんだ、最近はパクリばかりじゃないか」ということになりますし、「今」への評価が下がるのは大いに考えられることです。
感受性の鈍化?
一般に、人の感受性が最も豊かなのは思春期のころといわれます。その時期に出会った音楽や映画、小説、漫画……これらで味わった衝撃や感動は生涯忘れ得ぬもので、そうした作品はずっと特別な存在であり続けるものです。
もちろん、その後の人生でも私たちはさまざまな優れた作品と出会うわけですが、まだ経験の少ない年ごろに受けた影響は非常に強いのです。その印象が強いほど、「あのころ」のように心が動かない事態に直面して、「俺の感受性が鈍くなったのかな……?」と首をかしげることも多くなるでしょう。
興味の問題
もっとも実際には、「今」を楽しめない要因は必ずしも感受性の鈍化とは限りません。「よく知らない」のが理由ということも十分考えられるからです。
大人になると、何かと生活は忙しいものです。あれもこれもと興味を持つ暇はありませんし、深く知ろうとする余裕もないかもしれません。「よく知らない」ということは、自然とそのものの魅力に気づく可能性も小さくなるということです。そうなると、かつて熱中した作品のほうが断然魅力的に感じられますし、「昔のほうが良かった」となるのも必然といえるでしょう。
「懐古厨」のまとめ
人が「懐古厨」となる要因は、おそらく上記のような事情のどれか、あるいは、それらが混じりあった結果であると思われます。
どんな世代のどんな人も、みな等しく歳を取り、自分より若い世代の人々を迎えることになります。世のなかはずっとその繰り返しです。つまり、「懐古厨」が生まれる余地はいつの時代にもあるということです。