「有頂天」とは?
「有頂天(うちょうてん)」とは喜びや満足感の絶頂という意味です。夢中になっていて、周りが見えないくらい浮かれている様子を表します。
テストに合格したり、仕事でうまくいったりして満足していることを「得意になる」といいますよね。その最上級の状態、もうこれ以上は得意になれないくらい満ち足りた状態が「有頂天」です。
時々、「有頂点」と書かれているものもありますが、これは誤字です。非常にうれしいことを「天にも昇るような心地」とたとえるように、天に昇っているような満足感、と考えると間違えにくいでしょう。
「有頂天」の使い方
「有頂天」は、使用するシチュエーションに少し注意が必要な言葉です。ある人の喜びや満足を表す言葉であることには違いないのですが、そのせいで視野が狭くなっている、他を顧みていないというニュアンスが含まれています。
たとえば、「試験に合格したので、彼は有頂天だった。」という文を取り上げてみましょう。彼が試験に合格したことを喜んでいるのは間違いありません。しかし、より重要なのは他のことを考えられなくなっているということです。
また、「有頂天」は満足の絶頂で最高潮であることを示す言葉です。そのため、その時点がピーク、すなわち、「後は落ちていく」ことを暗示する伏線としての使い方もあるのです。
例文
- 難関大に合格したことで彼はすっかり有頂天になっている。
- 有頂天の彼がなにかやらかしそうで心配だ。
- 告白にOKもらった日の彼の有頂天ぶりといったらなかったよ。
「有頂天」の類語
「有頂天」のように満足した様子を表す言葉は非常にたくさんあります。夢中になって視野が狭い様子の表現も同様です。そのため、ここでは同じようなシチュエーションで使えそうなものをいくつか紹介するにとどめます。
欣喜雀躍
「欣喜雀躍(きんきじゃくやく)」とは踊りだすほど喜んでいることです。「欣喜」は喜んでいるという意味です。「雀」はスズメ、「躍」はもちろん跳躍のことですね。
スズメが喜びのあまり踊るという意味、ではなく、スズメが飛び跳ねるように喜んで小躍りするという意味です。スズメは踊らないようです。ちなみに、ダンスを踊る鳥としてはフウチョウが知られています。
舞い上がる
何かうれしいことがあっていい気になる、浮かれている様子は「舞い上がる」とも言います。「有頂天」とはなにかと通じるところが多いですね。
ただ単に喜んでいるという意味でも使われますが、悪い意味でも使われます。うぬぼれている、調子に乗っているといったところです。舞い上がるほど喜んでいても、地に足をつけていたいものですね。
うつつをぬかす
「うつつをぬかす」とは何事かに熱中してしまい、我を忘れている状態です。没頭や没入とも言えます。
「うつつ」とは現実のこと。今見えている景色が本当のものか自信がなく、現実とは思えないことを「夢か現か、幻か」と表現することがあります。夢なのか現実なのか判断がついていない様子です。
「うつつをぬかす」なら現実が抜け落ちることですね。何か他のことにかまけて、大事なことがなおざりになっているという意味で使われます。
「有頂天」の由来
「有頂天」は仏教由来の言葉です。仏教と関わりの深いサンスクリット語の「bhavagra」や「akanistha」を訳したものと言われています。
仏教用語としての「有頂天」は最上位に当たる世界を指します。仏教では世界をその特徴から三つに分けて考えていました。欲望に支配された「欲界(よくかい)」、欲や煩悩のない「色界(しきかい)」、物質の束縛さえない「無色界(むしきかい)」です。
無色界に分類される世界のうち、最も優れた世界を「有頂天」といいます。正式名称は「非想非非想天(ひおすひひそうてん)」です。文献によっては色界の最高位「阿迦尼吒天(あかにだてん)」を指すこともあります。
六道と三界
仏教に詳しい方なら、仏教の世界は輪廻(りんね)の輪をまわり続けるというものでは?と感じたでしょう。生前の行為に応じて、六道(ろくどう)と呼ばれる六つの世界をぐるぐる回り続けるという考え方ですね。
六道は地獄、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間、天の六つがあり、この順に楽になっていきます。
六道と三界の関係を簡単に説明しておきましょう。天道以外の五つは全て欲界に分類されます。天道は三つに分かれ、それぞれが欲界や色界、無色界へと当てられています。
「有頂天」と「極楽浄土」
「有頂天」と「極楽浄土」は同じ場所ではありません。極楽浄土とは輪廻の輪から外れた人が行く場所です。この、輪廻の輪から外れて極楽へと行くことを「解脱(げだつ)」といいます。
極楽浄土へ行ってしまえば、もう六道をさまようことはありません。将来安泰です。仏教徒の最終的な目的はここへ行くこととも言えます。
一方、「有頂天」はあくまでも六道の一部です。天道にいる天人たちは寿命が長くいとは言っても死なないわけではありません。死が近づくと「天人五衰(てんにんごすい)」という兆候が表れると伝えられています。
「有頂天」にいた天人も死後はもちろん輪廻をさまようことになります。天もまた六道の一つでしかないのですから。絶頂に上り詰めていても、見えていない現実があるという点、今の「有頂天」とも通じるものがありますね。