「後光」とは
「後光」とは、仏像でいうと「光背(こうはい)」に当たります。では、光背とは何かというと、仏菩薩(ぶつぼさつ)はその超人性を象徴するように、仏身が光明(こうみょう)で輝いているのです。この光明を、仏像の背後に形として表現したのが「光背」です。光明は仏菩薩の智恵や慈悲が、光としてあふれ出たもののことを言います。ですから「後光」は、「仏菩薩の尊さの象徴」だと考えてよいでしょう。
実は「後光」は頭光と身光の2つに分かれており、二重の光円を描いています。東大寺の国宝・毘盧遮那仏(いわゆる奈良の大仏)をイメージすると分かりやすいかもしれません。頭の後ろを中心としたやや小さめの円と、体に沿った大きな円が重なり合っているのが分かるかと思います。
また、漢字には同じ読みの「御光」を当てることもありますが、こちらはどちらかというと山などで見られる自然現象(ブロッケン現象)を指すことが多いようです。しかし、後光とブロッケン現象の関連性はゼロではないので、詳しくは後述します。
現在の「後光」の意味と用例
日常会話の中で「後光」を使う場合、仏菩薩を念頭に置いて使うケースは少ないでしょう。多くは人間に対して使います。「輝かしい姿に見えるとき」あるいは「尊敬の気持ちをもって人を見たとき」などに「後光」を使って表現します。
「ノーベル賞を受賞された先生だけに、後光が差していました」
「救いの手が差し伸べられた瞬間、思わず後光が見えた」
なお、同様の表現を、もっとくだけた言いまわしで、冷やかしや軽口のように用いることもあります。例えば金欠の際にお金を貸してくれた先輩に、「先輩、後光が差して見えます!」なんていうケースですね。
社会心理学の中では、後光効果という言葉もあります。特定の人物をひとたび好き(逆に嫌い)になってしまうと、すべての面において不当に好ましく(逆に非好意的に)評価してしまうという心理状態のことを言います。前者はいわゆる「あばたもえくぼ」状態で、後者は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態です。「後光」がまぶしく、他のことが目に入らないといった感じでしょう。
「後光」につながる話
「後光」は比較的古くから一般庶民の間で親しまれている言葉のようで、私たちの暮らしの中にも関連するものがあります。2つご紹介します。
あみだくじ
あみだくじはその呼び名の通り、阿弥陀如来(あみだにょらい)からきています。あみだくじという呼び名が一般的になったのは後のことですが、くじそのものは室町時代からあり、「阿弥陀の光」と呼ばれていたようです。放射状に引いた線(古くは平行線ベースではありませんでした)がまるで阿弥陀如来の「後光」のようだということで、こう呼ばれるようになったと言われています。
御来迎(ごらいごう)
山岳信仰とも関連する御来迎は、高山の山頂などで太陽を背にした場合に起こる自然光学現象です。いわゆるブロッケン現象のことですね。雲や霧に映った自分の影の周りに光の輪が発生するため、江戸時代には「(「後光」に包まれた)阿弥陀如来が雲の中から現れた!」と思った僧侶もいたそうです。
「後光」のビジュアルイメージ
神仏の超人的な輝きは、宗教芸術の中でどう具象化されたのか、仏教とキリスト教を例に解説します。
仏教では
仏像や曼荼羅に見られる後光ですが、時代や仏像の種類によってデザインはさまざまです。シンプルな輪形のものもあれば、雲や蓮華、火焔など、細かい文様が施されたもの、放射状の線で表現されたものなどがあります。
時代を経るにつれて本来の意味から離れ、修飾的な方向に発展していったという分析もなされています。ちなみに、あみだくじの元になった阿弥陀如来の仏像では、兵庫県の浄土寺にある国宝・阿弥陀三尊像が「阿弥陀の光」らしい後光を放っています。
キリスト教では
英語で言う"glory"は後光、あるいは光輪と翻訳されます。キリスト教図像には2世紀ごろから登場します。キリストの頭の付近に描かれた円輪・円盤状のもので、多くの場合は金色で彩られました。スペインの画家・ベラスケスの「十字架上のキリスト」では、十字架にかけられたキリストの姿がリアリティーをもって描かれていますが、いばらの冠のあたりには後光が輝いています。
「後光」をつくってみた?
世の中には、自分で後光をつくってしまった方もいらっしゃいます。本来は仏菩薩の尊さの象徴ですが、自分もそうありたいと願う気持ちが強かったのでしょうか。
「ウェアラブル後光」
電気を使った工作で、光る棒状の素材でできています。自動でゆっくりと放射状に開いていく過程が楽しめます。
「後光カチューシャ(ティアラ)」
こちらは後光が放射したような形の髪飾りです。材料は結束バンドだそうです。